Hush-Hush: Magazine
ハムネット

ハムネット

変えられないものを、いかに受け入れるか

「変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ、変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を、われらに与えたまえ」 (ラインホールド・ニーバー)

クロエ・ジャオ監督の新作『ハムネット』を観た。映画祭、海外レビューなど上々だった前評判に違わず傑作だった。本稿は鑑賞から1日後に書かれている。鑑賞後、1日という時間を置いてもなお、僕の頭の中には『ハムネット』についての思索がたゆたっていて、それをどうにか言語化しておかなければ、とてもじゃないけれど週明けから仕事に身が入らない…そんな焦燥感からこの文章は書かれている。

まずは作品概要を述べておこう。舞台は16世紀のイングランド。ウィリアム・シェイクスピアと妻アグネスは、11歳の息子ハムネットをペストで失う。その喪失体験が不朽の名作『ハムレット』誕生の淵源だった──史実を大胆に解釈することで、英国文学の巨頭ウィリアム・シェイクスピアを家族史の視点から脱構築せしめた悲哀劇。それが本作『ハムネット』のあらましだ。

『ハムネット』が傑作だった理由は大きく分けて2つある。1つ目は感情的なカタルシス、2つ目は本作の主題が捉える射程の長さだ。前者については公開直後からSNSで散々っぱら言及されているが、少しだけ付言しておくと、本作がクロエ・ジャオ監督作品という、いわゆる独立系の映画に属する作品でありながら全世界で1億ドル以上のヒットを叩き出している要因は、この過剰と言っても差し支えない感情的なカタルシスに見いだせる。

端的に言って、本作は「泣ける」。主要な筋立てを追いかけているだけで、思わず落涙し、胸が苦しくなるような瞬間が劇中で何度も訪れる。嫌な言い方をすれば、シェイクスピア文学にまつわる専門知識がなくとも、等身大の人間が織りなす哀切に共鳴して泣くことができる。監督のクロエ・ジャオは家族の哀切を丁寧に掬い取り、幽微的な映像表現で描き出すことで、観客の涙腺に拍車をかける。そして、最後の駄目押しと言わんばかりにクライマックスで投入されるのが、現代を代表するコンポーザーの1人、マックス・リヒターの既存曲の中でもっとも著名なスコア『On the Nature of Daylight』だ。

かつてマーティン・スコセッシ監督が『シャッター・アイランド』で使用し、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が『メッセージ』で使用して以来、感動させる楽曲装置として一躍名を馳せた定番曲。そんな「ド」がつくほどの定番曲を愁嘆場に用いるのは、感傷的を通り越して露骨すぎやしないか?──欧米メディアのレビューでは、この「過剰さ」が槍玉に挙げられている。

たしかに、クライマックスの場面に至るまでマックス・リヒターの劇伴は意図的に抑制されていたし、『関心領域』を手掛けたサウンドデザイナーによる環境音・自然音がリヒターの劇伴以上に雄弁にシーンの感情を表現していた。それまでずっと静謐だった音響トーンをクライマックスの場面でひっくり返し、過剰なまでの感涙を誘うその演出に、斜に構えた批評家たちが鼻白む気持ちもわかる。

だが、それでもやはり泣けるのだ。ややもすれば作為的にすら感じる、お膳立てされた感動の舞台装置であったとしても、僕は劇中なんども溢れる涙を堪えることができなかった。シェイクスピア作品が繰り返し描いてきた悲劇──悲しみ、苦しみ、遣る瀬なさ──その普遍的な感情に思わず共鳴し、落涙してしまう。

やや過剰気味な「泣かせる」演出に心を動かされ、「正しく」泣くことができて、エンドロールが終わった後にはスッキリした感覚が心地よい余韻として残る。普遍的な感情をレバレッジすることで最小公倍数的な幅広い観客層を満足させる。本作がヒットした構造は、このようにまとめることができるだろう。

だが、僕が『ハムネット』について、こうして言辞を弄するに至ったのは、そんなAIで代替可能な薄っぺらいヒット分析をするためでもなければ、心奪われた感動について縷々と語るためでもない。本作が扱う主題とその射程の長さを語るためだ。

そこで、冒頭で麗々しく引用したラインホールド・ニーバーの言葉に立ち返る。本作はグリーフケアの物語だ。いかにして死を受容するか──自分ではどうすることもできないもの、変えられないものをいかにして受け入れるのか。本作が描くのは、親しい人を亡くした後の「喪のプロセス」つまりグリーフケアのプロセスに他ならない。

ペストの罹患によって愛息ハムネットを亡くしたウィリアムとアグネスは、それぞれ異なる方法で息子の死を受け入れようとする。自然との繋がりを信じ、霊感的な能力を持つアグネスは自身の知覚、つまり身体性を通じて息子の死を受け止める。一方、新進気鋭の劇作家たるウィリアムは言葉を通して、死の喪失感と向き合う。「死」とそれに伴う「喪失感」という不可視の対象を捉えようとする働きは、想像力を介して行われる。ここではグリーフケアに対する2人のアプローチをそれぞれ「身体的想像力」と「言語的想像力」と呼んでおこう。

両者の想像力の違いは、アグネス/ウィリアムの在り方と息子ハムネットの死を経験する方法によって規定される。アグネスにとって「母である」ことは自ら選んだ結果でもなければ、誰かに強制されたものでもない。(このように書くと性差と役割の観点からフェミニストを自称する連中が嬉々として反駁しそうな気もするが、ここで論じたいのは社会的な役割ではなく実存的な問題、生き方の問題だ)

アグネスにとって「母である」ことは生き方である。アグネスという存在そのものを規定する在り方である。子供を救うためなら自分の命を進んで差し出すと明言し、「この子を連れて行かせはしない」と何度も口にしながらペストに罹患した子供たちを看病するアグネスの姿には、尋常ならざる生命力が宿っている。夫ウィリアムとの会話では、表情や目つきの微妙な変化によって平板な感情を示すアグネスだが、子供の出産・喪失に際してありったけの感情を迸らせる。この両極端に躍動するバイタリティは「母であること」──アグネスの生き方が源泉となっている。アグネスの迸る激情は情緒的な脆さ(気質)の発露ではなく、彼女を「母親」たらしめる条件である。

母親として存在するアグネスは、つねに知覚を通して、身体性を介して世界に触れる。本作のファースト・ショットは森林の中に横たわるアグネスの姿を捉えた映像になっているし、劇中で彼女が夫と言葉を交わす時、彼女は何らかの用事をこなしている。用事をこなし、身体を使いながら夫に応答する。息子ハムネットの死に際では、痛みにのたくる息子の両足を押さえつけることで、その痛みを知覚する。彼女にとってハムネットの死は、知覚を通して体験したこと=実感を伴った痛みだった。苦しみもだく姿を目の当たりにしたことで、アグネスは息子の死後もその痛みを抱え続ける。

一方、夫ウィリアムは息子ハムネットの死に際を目にしていない。ロンドンへ発つ前には元気だった息子は、帰宅した時には物言わぬ亡骸に変わっていた。息子の死を受けてウィリアムが口にする言葉は、「逝った(gone)」ではなく「消えた(vanished)」だった。ウィリアムにとって、息子の死は実感を伴っていない。奪われたという感覚すらもない。気がついたら消えていた、という感覚がいつまで経っても拭い去れない。だから苦しむ。

実感が伴わない息子の死をウィリアムは言葉によって理解しようとする。アグネスにとって息子の死が「感覚されるもの=感じるもの」だったのに対し、ウィリアムにとっては「理解する対象=言葉を向ける対象」だった。

アグネスにとって「母親であること」が存在様態そのもの、生き方であったのに対し、ウィリアムにとって「劇作家」であることはロンドンで自己実現を果たすための手立てに過ぎず、他のものと代替可能な手段に過ぎない。

なぜ、息子は死なねばならなかったのか。答えの出ない問いを考え続け、言葉を用いて理解できぬものを理解しようとすることで、ウィリアムは演劇に逃避していく。自らが置かれた境遇・いま感じている胸の痛み、苦しみを理解しようとするプロセス──それが戯曲として結実する。

「身体的想像力」と「言語的想像力」。愛息を失ったアグネスとウィリアムはそれぞれ異なる方法で、死の喪失感を受け入れようとする。両者のアプローチの違いが、次第に2人の関係に溝を生み出す。

そして、両者の異なる想像力は、愛息の死から生まれた演劇「ハムレット」の初演時に接合される。生身の役者が舞台上で役を演じ(身体性)、台詞を発する(言語性)ことで成立する舞台演劇は、アグネスとウィリアム、それぞれの異なるグリーフケアが接合される場として機能する。「身体的想像力」と「言語的想像力」が接合され、「演劇的想像力」への止揚に至る。その場限りの一回性と物語性を持ったことで、「演劇的想像力」は、息子の死という「変えることのできないもの」を受け入れることを可能にする。

劇中劇のラスト、愛息ハムネットを幻視したアグネスは、彼の死後はじめて快活な笑顔を見せる。だがその直後、彼女は表情を消して真顔に戻る。物語の中に「息子の喪失」を投影することで、それまでずっと身体感覚によって捉え続けていた息子の死を舞台演劇に仮託し外部化することで、アグネスは死の喪失感を受け入れることに成功する。だが、その効果は舞台が演じられている瞬間しか持続せず、舞台が終われば再び容赦のない現実が、喪失感が襲ってくる。映画を観ている間、観客は日常の些事を2時間だけ忘れられるが、映画館の客席に明かりが戻ると、ふたたび日常に襲われる──僕たちの映画体験に通底する現実/虚構の揺り戻しが、「演劇的想像力」の限界が、本作のラスト・ショットで示唆されるのだ。アグネスとウィリアムが弁証法的な過程を経て到達した「演劇的想像力」──それはあくまで一時的な処方箋に過ぎず、「息子の死」とそれに伴う「喪失感」を取り除く根治治療ではないことが映画の最後で示される。

とどのつまり、死を受け入れる=弔うとは自分を納得させることなのであり、「死」という事実が「変えられないもの」である以上、自身を変えるほかない。

これは奇しくも現在の時代感覚を反映しているのではないか。クロエ・ジャオ監督の前作『エターナルズ』が公開された2021年、その翌年に公開された映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』を特徴づけるのは「マルチバース概念」だった。いかにして世界を自分が望む形に変えるか──開かれた無数の可能性を自分の望みどおりに収斂させるか。ここには、世界は「変えられるもの」という前提があった。

だが、今年(2026年)に公開された『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』や本作『ハムレット』において、世界は「変えられないもの」として扱われている。たった5年の間に、「この世界をいかに変えるのか?(可能性に開かれた世界観)」から「変えられないこの世界をいかにして受容するのか?(閉塞感に覆われた世界観)」へと、時代感覚がシフトしている。

『ハムネット』が口コミによって評価され、北米市場でヒットしたことは、そんな時代感覚の変化と決して無縁ではないだろう。

近年の映像作品には、“物語的な想像力”が欠けている。『ブゴニア』『ワン・バトル・アフター・アナザー』『Warfare』『ザ・ボーイズ シーズン5』など、現実を忠実に模写したかのような虚構世界を描く近年の映像作品は枚挙に暇がない。現実が虚構化し、虚構が現実化する時代──それが2026年という時代なのかもしれない。

閉塞感に覆われた現代で“物語的な想像力”を取り戻すことは可能なのか?──『ハムネット』はその問いに真っ向から応答することで、閉塞感に一筋の光明をもたらす希望だと言えるだろう。

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